千葉・安房地域における修験道再興の動きに見られる伝統とクリエイティブの新しいかたち

インタビュー:伊藤尚徳さん(鋸南町「極楽寺」住職)

房総半島らしい低山に四方を囲まれた鋸南町の小保田(こぼた)という地区にあるお寺「円照院」では、毎年1月になると「火渡り法要」なる行事が行われており、一般に公開されている。観覧者の数は遠方からの来訪者も含め、年々増え続けているのだという。読経が続けられる中で護摩木が次々と火に焼べられる場面では、予測を遥かに上回る量の煙にその場全体が包まれることとなり壮観だ。昨年、その一部始終を目撃することができた筆者などは、ミニマルミュージックが如き読経に聞き入りながら火を見つめ、煙に包まれているうちに、なんとも言えない原始的な興奮を覚えたものだ。

地域住民の方によれば、この火渡り法要は鋸南町の海沿いの竜島(りゅうしま)地区にある「極楽寺」の若いご住職が、ご自身の代になってから復活させたものなのだという。火渡りといえば修験者たちの荒行の一つなのであって、修験道とはかつての神仏習合の時代、つまり近代化以前の日本独自の信仰のあり方を象徴するものの一つなのだが、現代において現役の僧侶がこれに取り組む理由とは果たして何なのだろう。

伝統は人によって作られるもの──住職と初めてお会いした際に、話の流れで彼はそう言った。不変を表象する「伝統」であっても人間の創作なのだという視点は、一人の人間の生に与えられた時間を悠に超える振り幅の時間感覚と常に対峙し、思考し続けている宗教者ならではといえるかもしれないが、その視点から、何事においても早い、安い、旨い情報ばかりが求められがちな現代社会の近視眼的なありかたを、ひいては様々な今日的な課題の一つ一つを見直すことで得られる未来へのヒントがあるのではないだろうか。極楽寺の住職、伊藤尚徳さんに改めて話を聞いた。


伊藤尚徳|Shotoku Ito


鋸南町にある真言宗のお寺、極楽寺に生まれる。高校時代、住職だった父が急病に倒れたことをきっかけに、お寺を継ぐことを決心。18歳で智山専修学院にて修行。父親の死を受けて、20歳で極楽寺の住職となる。

「30歳までは自分のために」をモットーに、住職をつとめるかたわら、大正大学に進学し、仏教学を学ぶ。インディーズバンドsamadhiを結成し、余暇にはライブ三昧。

インドを逍遥すること数回、日本では修験道の入峰修行をとおして、唯識・華厳思想への興味が高まり、国際仏教学大学院大学で研究し、博士(仏教学)を取得。30歳の節目に真言行者の二大練行といわれる八千枚護摩供、虚空蔵求聞持法を修行。

「30過ぎたら家族のために」をモットーに結婚。2児の父となる。鋸南町の円照院、極楽寺、往生寺、南房総市の真野寺を兼務し、各寺の復興につとめる過程で、地域の急速な人口減少を実感。人口減少・過疎問題の調査研究を開始した智山教化センターの求めに応じ、過疎問題当事者として奉職。現在、四ヶ寺の住職のほか、蓮花寺仏教研究所研究員、智山専修学院講師、智山教化センター所員。

火渡り法要が始まる直前の円照院。境内には神道の神祭具である忌竹(いみだけ)と注連縄(しめなわ)で聖域が作られている。


伊藤:低い山ばかりの房総半島に修験信仰が芽生えたことには、さまざまな背景があります。古代の山林修行や修験道の発祥地を追うと、本州では紀伊山脈がその中心地となります。特に奈良県の吉野地方や、三重県の熊野地方には神仏習合と修験道の歴史は色濃く、現代もその歴史と伝統が残っています。古代、房総半島は、四国、近畿からの海洋を通しての文化流入のほか、実際に熊野大社社領となっていた地域も多く、そのため熊野神社の数も大変多いことが知られます。そうした熊野との地域的なつながり、あるいは海洋からの宗教知識の流入など、さまざまな歴史背景の中で、房総半島に修験道の宗教文化が根付いたことが考えられます。

区区往来:海路や水路による交通が盛んであった時代には、半島という地理的条件は外側から見れば陸地の先端なのであって、異文化がもたらされるポータルでもあったわけですよね。さて、現代における修験道の実践には、近代化以前の神仏習合のあり方を今に伝えるという側面があるのではないかと思います。ゆえに、土地に根ざしていた自然信仰的な考え方と、海の向こうの大陸から伝来した仏教が調和、あるいは同居することによって神仏習合という状態へと至っていったというプロセスには、とても日本的な、というよりも島国特有のハイブリッド感覚が表れているように感じられます。そして個人的には、そこに<古いものを大切にしながら新しいものを作っていく>というきわめて今日的な課題を重ね見ることができるのではないかと思っています。伊藤さんは鋸南町の「極楽寺」というお寺のご住職でいらっしゃいますが、どのようなモチベーションでこの火渡り法要に取り組まれていらっしゃるのでしょうか?

伊藤:安房(あわ)地方は寺院の数が多い地域で、特に真言宗の寺院数は約250ケ寺を数えます。対して僧侶の数はそれよりも大幅に少ないため、いくつかの寺院を兼務する僧侶も少なくありません。私の場合、鋸南町竜島の極楽寺に生まれ育ち、住職として跡を継ぎましたが、他に地域の3ケ寺のお寺を兼務しています。円照院もその一つです。どのお寺にも、その規模の大小に関わらず、それぞれの歴史があります。私がお寺をお預かりし、そのお寺の将来の運営を考えるときに大切にしていることは、それぞれのお寺が創建された当時のことに思いを馳せることです。ご本尊様にもそれぞれ不動明王、観音さま、お釈迦さま、阿弥陀さま、お地蔵さま、お薬師さまなどなど、それぞれに仏さま自身の「誓願」に基づくお役目があり、そのお姿が示す象徴的な意味があります。ですので、地域の祖先たちはなぜこの場所に、このご本尊さまをお祀りしたのかということを考えます。

円照院の火渡り法要は地域住民のみならず遠方からの観覧者の数も増やしつつある。


伊藤:かつてこの土地に確かに生活していた祖先がいて、その人たちが育んだ文化や信仰を同じ土地に生まれた未来の私たちが引き受けています。祖先が意図的に未来に想いを届けていたかは分かりませんが、私たちは、祖先が紡いだ歴史の上に生きている限り、祖先の想いを想像し、そこから生まれる物語の中に身を置くべきだと考えています。私たちは少なからず、祖先の魂を感じつつ生活していることは間違いないと思います。そこに現代人なりのハイブリッドな感覚が生まれるのかな、と。つまり、祖先と同じ感覚や環境で生活はできませんが、祖先の魂を感じ、それを自らの人生において解釈し、現代の生活に反映するというものです。先ほど申しましたとおり、円照院で火渡り法要が行われていた史実はありません。ただ、祖先は確かに修験道を知っていたし、その文化の中に生きていました。私はそうした祖先の魂の一端を、現代に生きる人々に示すことで、それを見たり体験した人が、それぞれの人生にとって有意義な何らかの気づきを与えるきっかけになればと思い、現在も取り組んでいます。

区区往来:円照院で行われている火渡り法要には、安房地域内にある他のお寺の住職の皆さんも関わっておられて、また、火渡り法要はそれぞれのお寺でも順次行われていると聞きました。具体的にはどのようなメンバーによって運営され、どのようなスケジュールで展開されているのでしょうか? そして、火渡り法要には円照院がある小保田という土地の氏神様を祀る安岡神社の宮司さんが参加されていたり、修験者たちが「山伏問答」を行う場面があったり、参列者も最後に火渡りが体験できたりと見どころが幾つもあるかと思うのですが、火渡り法要の大まかな流れについても教えていただけないでしょうか?

伊藤:修験道の知識は、厳密には真言宗の一般的な僧侶が会得するものとは別であって特殊なものです。また、全国各地でその伝統も異なり、100の修験道があれば100通りの違った作法があると言われるほどです。安房の修験道は、安房の自然と歴史の中でしか養われません。安房の修験道とは何か。共に安房の山を歩き、修行し、歴史を学び、安房修験の文化を復興する目的で、15年ほど前にいくつかの寺院の住職が集まり、「安房修験会」という団体を立ち上げました。円照院が火渡り法要を始める以前から、鴨川の「大山寺」、天津の「自性院」、千倉の「能蔵院」、館山の「妙音院」では、柴灯護摩法要が行われていましたが、もともとそれぞれのお寺は点と点であり、何となく行事のお手伝いをしたりするくらいで強い連絡はありませんでした。しかし「安房修験会」ができたことで点と点が線で結ばれ、現在では共に山を歩き、修行する仲間たちが増えました。現在、円照院の柴灯護摩に参加いただく修験者のほとんどは安房修験会のメンバーです。また、安房修験会のメンバー以外にも、全国各地で修験道の行者方が参加してくださっています。円照院の柴灯護摩・火渡り法要は、毎年1月第3土曜日に行っています。もともと1月第3日曜日に館山の妙音院で柴灯護摩が行われていたため、土日に続けて開催することで、準備や全国各地から助法に来る山伏も集まりやすいので、お互いに協働していこうというところで始まっています。

法螺貝を吹きながら境内へと入っていく修験者たちと安岡神社宮司。


伊藤:円照院の柴灯護摩法要の次第は、安岡神社の宮司様による「道場のお清め」、山伏による「破邪結界の作法」、住職による「願文の奏上」、そして「柴灯護摩修行の奉納」、柴灯護摩の残火で行う「火渡り修行」で終わります。宮司さまが登場するのは円照院独特ですが、もともと柴灯護摩が神仏習合の祭典であることもそうなのですが、何よりも宮司さまのご先祖さまが、明治の神仏判然令まで修験寺院の金剛院の住職でいらっしゃったということが大きな理由の一つです。円照院で柴灯護摩を始める当初にお声がけさせていただきましたところ、地域の宗教文化の復興に深く共感していただき、毎年ご協力いただいております。また、最近では、山伏たちが道場に揃ったタイミングで、外から旅の行者が訪れ、修験道の知識について問答する「山伏問答」をつとめます。歌舞伎役者さながらの問答で、見応えもあるのですが、問答の内容をしっかり聞くと、修験道の意義、山伏の意味や、山伏が身につけている法具の意味などが理解できます。

区区往来:見当違いなものの見方になってしまうかもしれませんが、舞踏や演劇といった舞台芸術に関心のある人であれば、お寺の境内を舞台にそれぞれの役割が演じられる山伏問答や柴灯護摩の場面には何かしら惹きつけられるものがあるだろうなと思いました。ところで、伊藤さんは安房地域の山々へ入って修験道の形跡をフィールドワーク調査するということもされているそうですね。

伊藤:安房の山々には石仏や祠などが必ず祀られています。それらは地域の祖先がそれぞれの信仰の中で祀っていたもので、実際には修験道という一つの形式のなかに収まるものではありません。修験道という一つの宗教の枠組みでさえ、古代における僧侶中心の山林修行的な形態、中世における民間の呪術的、民俗宗教的な形態、近世における宗教統制において発展した形態など、いくつもの変遷があります。その意味で、安房の各地に見られるかつての信仰の跡を、すべて「安房の修験道」という括りで捉えるのは、いささか乱暴です。例えば、ある山の頂にすでに形が崩れてしまった小さな石宮があったとします。それは確かにお祀りされてはいるものの、もともと何の神様を祀っていたのか、あるいは石仏であったかもしれないし、墓石であったかもしれない。どのような目的でそこにあるものかはっきりしません。それらを一概に、山に祀られているから「安房の修験道」の文化の名残とは言えないわけです。


小保田の山中にある石宮(地域の方の許可を得て撮影しています)


伊藤:そこにあるのは、数百年前に生きた祖先がその人たちの思いなしによって建立したもので、未来の私たちにとって直接的な意味を持つものでもなく、なぜそこにあるのか、解明は不可能です。しかし未来に生きている私たちが、その一つの石に何らかの命の繋がりと、歴史と伝統を見出したときに、その石は意味を持ち始めます。安房に残る古代、中世に関わる史料は決して多くはありませんが、地域の伝承や、口伝などもたよりにしながら、その石を巡る歴史を明らかにするならば、それは安房という地域の歴史の一端を解明することになる──というよりも、むしろ「ある一人の祖先の生きた証」を解明することにもなるのです。フィールドワークを通して、祖先たちの息づかいに触れることはとてもワクワクするものです。

区区往来:以前お話しさせていただいた際に伊藤さんは「伝統は人によって作られるもの」ということもおっしゃられていて、この言葉にはとても刺激を受けました。というのも、伝統とはただ闇雲に「守り続けなければならない」ものなのではなく、人が作るもの=クリエイティブの対象でもあるのだという解釈が、自分にとって目から鱗だったからです。伝統とクリエイティブの両輪があってこそ人は前に進むことができるのではないか、と教えていただいたように感じました。コロナ禍の数年間を経て、全人類が時間や距離といった概念の再インストールを余儀なくされたようなところがある──少なくとも私はそう思っているのですが、伊藤さんはお寺のご住職という立場から、そもそも長期的なタームで物事を捉え、思考され続けてきた方なのではないでしょうか。円照院で行われている火渡り法要もまた、近視眼的な考え方にはとらわれない超長期的な見通しに基づいて新しく作られている──または作り直されている伝統なのだとすれば、とてもワクワクする話ですね。今一度、「伝統」というものについての伊藤さんのお考えをお聞かせいただけないでしょうか?

伊藤:あまり意識していなかったのですが、おっしゃるように私の場合、地域のお寺を場として、そこから見える数百年前の風景を想像したり、数百年後の姿を想像したりする癖があるように思います。逆にいうと近視眼的な思考で物事を考えるのが苦手であり、目の前の問題処理が人よりも大雑把かもしれません(笑)。昨今、SDGsの考え方が世界で標準化されるとともにビジネスの世界でも「パーパス経営」がキーワードになっていますが、長期的な見通しで大切なのは、おおよその目的地をある程度、明確にして未来に歩みを進めることです。しかし、過去の歴史もある程度、正しく理解しなければ、未来に歩みを進めることはできません。その意味で「温故知新」は常に守られるべきテーゼです。

修験者の装束であり敷物としても用いられる引敷(ひっしき)。伊藤さんが座る引敷は鋸南町の山で獲れた鹿の毛皮から作られている。


伊藤:ただ、その「故き(ふるき)」ものが安易に「伝統」という言葉に置き換わってしまう時、とても危うい状態になります。伝統というのは時に、もはや意味をもたない単なる慣習が自らを虚飾するための便利な言葉として用いられます。現在でも、伝統やしきたりの名の下に自由な発想が奪われたり、時には悲劇が生まれるケースもあり、きっと皆さんも経験として思い当たる節もあるでしょう。本来の故きものとは、祖先の生活であり、思想であり、そこから流れ出した歴史です。それを「温ねる(たずねる)」ことは、歴史を受け止め、学び、祖先と魂を共鳴させるということでしょう。それをもって「新しきを知る」のです。つまり、クリエイティブに未来を創造することができるのです。「温故」と「知新」の絶え間ない連動こそ、伝統の望ましい姿だと考えています。温故ばかりでもいけませんし、それを忘れ、知新だけでも中身のない張りぼての伝統を作ってしまいます。それでは、きっと私たちは良い祖先にはなれないでしょう。

終盤では修験者たちが次々に火渡りを行う。


伊藤:人生は長いとも短いともいえませんが、少なくとも、私たちもやがて祖先になります。変化の早い時代ではありますが、仮に伝統なるものが地域に残っているとするならば、私たちはその伝統の何が大切なのかを理解し、それが単なる因習とならないように、一人ひとりが祖先として、未来に何を伝え、残すべきか常に考えることが大切だと思います。ちなみに温故知新という言葉は中国の古典『論語』に記載される言葉です。私たちが何気なく使う言葉の一つをとっても、そこには古代の人たちの思想の息吹が息づいているのです。

区区往来:色々とお話しいただきありがとうございました。最後に、この火渡り法要に興味がある人たちにお知らせしたいことや取り組みなどが他にもありましたら教えてください。

伊藤:円照院の火渡り法要は、毎年1月第3土曜日13時から開催です。駐車場に限りがあるのでご不便をおかけしますが、ご興味ある方はぜひお運びください。また、円照院だけでなく、安房地域の柴灯護摩・火渡り法要は年間通して各地で行われています(註②)。また、修験道への興味だけではなく、地域の歴史に興味をもってもらえたら嬉しいです。地域の図書館にいけば、安房各地の伝説や史料をまとめた本もありますので、機会があれば手にとって読んでみてください。


註①
「火渡り法要は、修験道の修行の一つで、正式には火生三昧法要といいます。不動明王が智慧の炎を体にまといつつ煩悩を降伏する、その境地に行者自身が没入して、実際に火の上を歩き、人々の煩悩、あるいは厄災消除を祈願する修行法です。火の上を歩いても火傷しないというほどの修行者が得た法力や霊験を示す意味でも、古来より頻繁に祭典の中で用いられてきました。特に柴灯護摩と呼ばれる、もともとは山伏が山中で修行した護摩修行に付随して行われることが多いです」(伊藤住職)


註②
2024年の各寺院での火渡り法要の実施スケジュールは下記の通り。

1月20日(土) 鋸南町「円照院」(鋸南町小保田)
2月11日(日) 千倉「能蔵院」(千倉町忽戸)
4月28日(日) 館山「妙音院」(館山市上真倉)
5月19日(日) 鴨川長狭「大山寺」(鴨川市大山)
9月28日(土) 天津「波切不動尊」(天津小湊市)


2023年の円照院火渡り法要ダイジェスト動画(撮影:区区往来)



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